花燃ゆ

嘉永3年(1850年)萩。
下級武士、杉家の四女・文は、若くして兵学師範として長州藩の軍事調練を率いる兄・吉田寅次郎(のちの松陰)を誇らしく思っていた。
松陰は11歳にして藩主・毛利敬親に兵学を講義するなど、藩の将来を背負うと期待されていた天才だった。
文はある事件をきっかけに儒学者・小田村伊之助(楫取素彦)と松陰を出会わせることになる。
心の繊細さから他人とつきあうことができなかった文だったが、常識にとらわれず振る舞う兄の影響を受け、人と関わることの面白さを知り、たくましく成長していく。

八重の桜

1865年、アメリカでは南北戦争が終結。不要となった武器の多くが日本へもたらされることとなる。
そして明治元年(1868年)、それらを装備した新政府軍の攻撃にさらされる会津若松城の中に最新式のスペンサー銃を手に抗戦する一人の女性がいた。
山本八重、後の新島八重である。
時は遡って幕末、諸外国からの開国要求が高まり、日本国内は開国派、攘夷派などの思想の違いによる分断が起きようとしていた。
この時代の転換期に、会津藩の砲術師範の家に生を受けた八重は、藩軍備の洋式化を目指す兄・覚馬や、その友である洋学者・川崎尚之助らの側で、会津そして日本の変化を感じていた。
幕末の争乱により治安が悪化する京都警護のため藩主・松平容保が京都守護職に指命され、徳川将軍家への忠義を尽くさんと、会津は藩を挙げて倒幕派追討への動きに加わることとなる。
それは後にいわれる「会津の悲劇」の序章であった。